私が十歳の頃の話をしましょうか。あれは秋のことでした。
父の仕事の都合で夏休みに旅行に行けなかった私は、秋の三連休を使って二泊三日の旅行に出掛けました。
山の紅葉を見に行くには早すぎるし、テーマパークは大混雑間違いなし……消去法で選んだのは、東北にある海が綺麗な場所でした。そこは長い歴史を持つ観光地で、新鮮な海の幸が名物。海水浴が出来る場所ではありませんでしたが、一日に何便も遊覧船が出ていると父から聞かされて、私は大喜びしました。当時私が住んでいたのは海無し県でしたので、船には一度も乗ったことがなかったんです。
船に乗れる……大好物のお寿司をいっぱい食べられる。旅行までの数日間、私は寝る前に読む本を漫画から旅行雑誌に変えて、美しい観光名所やグルメを眺めて、心を躍らせていました。
旅行当日は素晴らしい秋晴れで、まさに行楽日和でした。
東京まで行き東北新幹線に乗り約二時間……今ならもっと早く到着するでしょうね。
駅を下りたら在来線に乗り換えて数十分……それでようやくお目当ての海の町に到着しました。駅を出てすぐに思ったのは、想像していた以上にこじんまりしていることでした。駅前のロータリーは小さく、タクシーが数台とバスが一台入ったらいっぱいになってしまうほど。こんなに駅前が狭いと、観光客はあまり来ないんじゃ……と思いましたが、ここを訪れる観光客のほとんどは、駅前に停まるバスを使わず、市街地から出ている観光バスで直接観光名所に行っているようでしたので、駅前の規模は小さくても全く問題ない様子でした。
駅前から海が見えるメインストリートへと向かうと、美しい海が広がっていました。飲食店やお土産屋さんが建ち並ぶメインストリートの道路を挟んで反対側は、広くゆったりとした公園があり、大人の腰くらいまでの高さの塀がありました。若者たちがそこに背を預け、携帯電話で記念写真を撮っていたり、お父さんに抱っこされた小さい子が海を見てはしゃいでいたり……中には疲れた顔で遊覧船のチケットを買っているカップルもいました。
あぁ、海だ……!すごい!
他の観光客と同様に、私は公園に入って海を目の前にして大はしゃぎしました。ですが、ここの海は他の海とは少し異なる印象がありました。海といったら、どこまでも広がる大海原を想像してしまいますが、ここは小さな島が点在しているのです。
それは、本当に小さな島です。人が上陸できるか怪しいくらい……でも小さな鳥居のようなものがある島もありましたから、少し大きい島には一応上陸できるんでしょうね。小さく歪な形の島が不規則に海の上に浮かんでおり、その絶妙な配置が絵画的な美しさを放っていました。
秋晴れの空の青、海の深い青、そして点在する小島に茂る松の緑……。芸術が何たるかも分かっていない小学生でも、この景色がとても綺麗なものだということくらいはよく理解できました。
「ここはね、昔からすごく綺麗な景色の場所というので有名なんだよ」
塀から身を乗り出して海を眺める私に、父が言いました。
「昔って、どのくらい?」
「江戸時代からだよ。江戸時代っていつ頃か、学校で習っているよね?」
勉強が苦手な私でも、何となくそのくらいは分かりました。母の提案で遊覧船に乗ることにした私たちは、母がチケットを買いに行っている間に写真を撮ることにしました。
子供用の携帯電話を構えて、目の前に広がる景色をパシャリ。自分なりに上手く撮ろうと、鳥居がある島を画面の右端に写るようにしました。
なかなか良く撮れた写真に満足し、私は両親と共に遊覧船の乗船所に向かったのでした。
たっぷり海を堪能した私は、旅館のバイキング形式の夕飯でお腹いっぱいになり、夕食後の温泉を一人で楽しんでいました。母と一緒に入る予定でしたが、両親は部屋でお酒を飲み始めてしまったので仕方なく一人で入りにいったわけです。
女湯に行くと、たくさんの宿泊客が脱衣所にたむろしていました。夕食の会場でも思いましたが、小さい子を連れた家族連れが多く、温泉も子連れの若いママやおばあちゃんがとても多かったです。内湯は人でいっぱい……でも露天風呂は不思議と人がいない様子でした。露天風呂に続く入り口付近では「やだやだ、お外怖い!」と泣いて駄々をこねる子供が多く、だから誰も露天風呂に行かないのかと納得してしまいました。小さい子にとって、夜の暗闇はとても怖いものなのでしょう。怖がる子供を無理やり連れて行こうとする親はいません。ママたちは仕方なく内湯だけで済ませている様子でした。
しかし、私には関係ありません。人がいないなら私一人で堪能してしまえと、一人露天風呂に向かいました。夜の潮風は微かな冷たさを帯び、秋の気配を運んでいました。真っ暗な海を一望しながら入る温泉は格別で、昼間とは異なる風景をずっと眺めていたいと思える素晴らしさがありました。
東京のような明るさのない地方の小さな海の町は、夜の明かりも乏しく、夜空にぽっかりと浮かぶ欠けた月の光だけが海を照らしていました。頼りない月光で、昼間は青々としていた小島の緑も、今はただ黒いばかりの大岩に見えます。幻想的な影絵にも似た風景の中で、何故かある小島に建てらてた鳥居ばかりが毒々しいまでの赤い色彩を放っていました。
あぁ、あれが昼間撮った島か……。
どれも似たような大きさや形の島々ですが、鳥居は非常に目立つ存在でしたのですぐに分かりました。
あの鳥居はなんのために建てらてたものなんだろう。きっと海の神様でも祀っているのかな。そうぼんやりと考えながら海を眺めていると、突然耳の奥を震わすような奇妙な音が聞こえました。
うぅぅぅ……、うぅぅぅぅ……
地を這うような低い唸りにも似た“音”でした。どこから聞こえて来るのか分からず、ただ耳の奥に響いていました。初めて聞く不気味な音色に、私は風呂の中で立ち上がり辺りを見渡し様子を窺いましたが……何の変化もありません。内湯は相変わらず子連れ客で賑わっていましたし、外を見ても車やバイクが通る気配もない……それなら船だろうかと海へと視線を向けました。昼間は遊覧船が行き交っていた海も、ただ静かで暗いだけで何もありません。
私の勘違いだったのかな……と思った瞬間、また低い音が聞こえました。勘違いなんかじゃない、やっぱり聞こえてる……。
その時、私は偶然にも見てしまったんです……。
海に浮かぶ小島が、ゆっくり蠢くのを……。
小さくゴツゴツした島が、ずずず……と横に“移動”していたんです。錯覚かと思いました。けれど、今度は違う島が……少しそれは細長い島でした。それが揺れるようにゆっくりと動いたんです。
そして、鳥居のある島までもが……あの不気味な低い音と共に“上下に”動きました。
何が起きているのか分からない……でも目が離せない。何か私は、とても不吉なものを見てしまったような、そんな恐怖で体に冷たいものが走りました。
どうしよう、逃げなきゃ……誰かに話さなきゃ……!
頭の中はパニック状態で、大人を呼ばなきゃとそればかり考えてしました。それなのに、生き物のように蠢く島を目の前にすると、私の体は恐怖で固まって動けない……。
その時です。
「いやぁ、晴れてて良かったねぇ」
「雨なら露天風呂も入れんからねぇ。いい時に来れたっけぇ」
賑やかなお年寄りの声が聞こえて、思わず振り返りました。二人の老女が、聞き慣れない訛りで楽し気に会話しつつ露天風呂に入って来たのです。
「おんやぁ、お嬢ちゃん。一人で露天風呂け?」
「あらぁ、ごめんねぇ。ちょいとお邪魔しますよぅ」
戸惑いつつ私は会釈をし、海へと視線を投げました。海は何事もなかったかのように静まり返り、そこにはただ美しく佇む島だけが浮かんでいました。音もいつの間にか鳴り止み、私は「あれはなんだったのだろう」という疑問と漠然とした恐怖を覚えたまま露天風呂を後にしました。
翌日の予定は、お土産を買うのと地元の資料館に行くことでした。歴史好きの母と資料館に行くのを私は楽しみにしていましたが、昨夜露天風呂で見た光景が気になって、資料館に行く心境ではありませんでした。私は両親に「もう一回遊覧船に乗りたい」とわがままを言いました。叱られることを覚悟していましたが、意外とすんなり私の主張は受け入れられました。
「よし。それじゃあ、ママは一人で資料館に行っておいで。遊覧船にはパパと乗ろう。その方が、ママもゆっくり資料館を見て回れるからね。資料館の周りには史跡もあるし、ママも一人の方がたくさん見られるだろう」
父の気遣いにより母は資料館に、私たちは遊覧船乗り場へと向かいました。
昨日と同じ遊覧船に乗った私は真っ先にデッキに立ち、海に浮かぶ島々を眺めました。動いていない……それどころか、動く気配すらない。隣に立つ父は「やっぱり船は気持ちがいいなぁ」と楽し気に笑っていました。鳥居のある島を通り過ぎた頃、ふとあるものが目につきました。白く、小さくふわふわしたものが島のそばを漂っていたのです。
よく見てみると、それは白いビニール袋でした。コンビニで買い物をした時に品物を入れる、あの袋です。それだけではありません。空のペットボトルやお菓子の包み。空き缶、串焼きを食べる時に使う白いトレイ……。
昨日は気付かなかったけれど、こうして観察していると細かなゴミが海を漂っています。陸から見るとあんなに綺麗な風景でも、間近で見ると人間が好き勝手に投げ捨てたゴミで、少しずつ海は汚されているのです。
島が動いていた真相を探りたくて遊覧船に乗ったのに、私はもう一つの海の姿を見つけてしまった。もやもやと言葉にしづらい気持ちを引き摺ったまま、私は小一時間船に揺られていたのでした。
昨夜と同じ旅館に泊まった私は、夕食の席で両親の話を聞いていました。どうやら母は、資料館がとても気に入ったようで上機嫌でした。
「ママが行ったところは歴史資料館だろう?どうだった?」
「とても良かったわ。古い出土品なんかも展示してあったけど、一番面白かったのはこの辺りの言い伝えに関する展示ね」
「民俗学の分野になるね」
「そうよ。まぁ、そんなに多くはなかったけどね。ここの小島にはそれぞれ名前が付けられていて、上陸できる島には小さなお社が建っているの。それは海の神様を祀っているんですって。人々が自然への感謝と尊敬を忘れると、海の神様が怒るのよ。神様が本当に怒り狂った時、海から神様がやって来るというのよ。すごいわよね」
「うーん。いかにもな言い伝えというか、民話というか……そんな感じだねぇ」
私は母の話が、ただの昔話や迷信には思えませんでした。
もしかして露天風呂で私が見た光景は、神様か何かだったの……?いや、そんなことはきっと有り得ない。そんなのは非現実的で漫画やアニメの世界みたいだ。でも、でも……。
否定と肯定を繰り返したまま夕食を終えた私は、また一人でお風呂に行きました。早めに夕食を終えたのもあり、女湯は昨夜ほどの賑わいはありません。軽く体を洗い、内湯には目もくれず露天風呂へと急ぎました。誰もいない露天風呂に入り、海を眺めます。夜の闇の中に浮かぶ島々は、眠っているかのように静かでした。
その時、また耳の奥に響いたのです。低く、唸るような……あの不気味な音が。
うぅぅぅ……、うぅぅぅ……
お腹の底が苦しくなるような音色に耳を塞ぎながら、海を睨みました。すると……島々が、ゆっくりと蠢いたのです。しかし、昨夜とは違います。
昨夜よりもっと多くの島が、左右に上下に、ぐらぐらと動いていたのです。なのに陸は静まり返っている。それが不思議でした。
やがて島の動きは激しくなり海面が大きく揺れ、私は恐ろしいものを見てしまいました。
巨大な亀のような生き物が、何匹も海から姿を現したのです。
亀の甲羅には島がくっついています。赤黒い肌の異形の亀たちは、海から甲羅と頭を出し、大きく口を開けて低い咆哮を響かせていました。島が蠢いていたのは、この巨大亀が動いていたせいだったのです。
信じられない光景に、私は言葉を失い震えていました。そしてすぐに察したのです……このグロテスクな亀たちは、きっと海の神様なのだと。
小島を付けた甲羅を持つ何匹もの亀たちは、怒り狂ったかのように頭を振り、やがて海の中に沈んでいき……辺りはいつもの静かな海に戻りました。ほんの数秒の出来事です。でも私には、とても長く感じました……おぞましい光景を見てしまった私は、しばらく露天風呂の中で呆然としていました。
それっきり、私はあの町に行っていません。もう一度行きたいかと言えば、どうでしょう……あまり気乗りはしませんね。あれ以来私は夜の海が怖くてたまらなくなりましたし、遊覧船も怖いです。海を一望できる露天風呂もできれば避けたい。
あれが本当に海の神様だったのか確かめる方法はありません。でも私はそうだったと確信しています。きっと神様たちは怒っていたんですよ。人間たちが好き勝手に海にゴミを捨て、汚すことを……。
私が見た恐ろしい光景を見ないようにするにはどうすればいいかって?簡単なことです。自然への感謝と尊敬を失わないこと。そして、海にゴミを捨てないことです。
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