とある地方都市の学校に私が転校してきたのは、小学四年生の夏休み明けでした。体育館での始業式の最後に、転校生が壇上に上がり紹介されました。私以外にも何人か転校生がいて、六年生の子が代表して挨拶をしていました。
転勤族の父を持つ私は、こういう経験は初めてではなかったのですが、何度やっても慣れないというか……私は緊張しっぱなしでした。だって、全校生徒が物珍しそうに私たちを見つめているんですから。まともに前を見ることができず、私は目を泳がせていました。一年生の列から六年生の列まで……あっちにそわそわ、こっちにそわそわ。転校生代表の挨拶が早く終わらないかな、とこっそり思っていました。
その時、ふと目に付いた列がありました。四年生か五年生のクラスで、一番後ろの子がやけに周囲を気にしているように見えました。。たまに先生が後ろにある小さな窓を開けて空気の入れ替えをするくらいですが、それが気になっているようには見えませんでした。
何を気にしているんだろう……。ちょっと疑問に思っているうちに代表の挨拶が終わり、私たちはステージを後にしました。
先生に連れられて教室に行き、みんなに自己紹介をしました。よく見ると、私が体育館で目に付いた子がいました。どうやら同じクラスのようです。帰りに思い切ってその子に声をかけてみました。背が高くボーイッシュな見た目の女の子で、名前をユカちゃんといいました。
転校生に急に声をかけられて、最初は驚いていましたが元々人懐っこい性格なのでしょう。すぐに笑顔を見せて色んなことを話してくれました。
私は、始業式でのことを聞いてみました。
「ねえ、ユカちゃん。始業式の時、何か気になることでもあったの?」
「え?あたしのこと見えてた?」
「私は壇上にいたから、よく見えたよ。一人だけ周り気にしてるなって。何かあったの?」
私はただの世間話のつもりでした。でも彼女は、急に表情を暗くして小さく唸り、言葉を選ぶようにゆっくりと応えました。
「ちょっとね……チセちゃんは今日うちの学校に来たばかりだから知らないだろうけど、うちの体育館はヤバいんだよ。あそこにいると、ぞわぞわってするの」
「何それ、学校の怪談?」
「うーん……あたし怪談話とかあまり聞かないから分からないけど、そういうもんなのかも。みんな知ってることだし、それについて話したりもしないけど、あの体育館がヤバいってのは確かなんだ」
「じゃあ、ユカちゃんは始業式の時にそれを気にしてたの?」
小さく彼女は頷きました。
「なんていうかね、後ろに“いる”ような気がして……」
何が、とは言いませんでした。私も聞けませんでした。聞けるような空気を彼女は持っていませんでしたし、きっとユカちゃんも答えられなかったでしょう。
その日はそのまま家に帰りましたが、私はずっとユカちゃんの言葉が頭に引っ掛かっていました。これまで行った小学校にも、学校の七不思議のようなものはありました。理科室の怪人、開かずの教室、女子トイレの幽霊……どこも似たり寄ったりで、みんなはそれを楽しんでいました。
“よく分からなくて怖いもの”は恐怖です。しかし子供にとってそれは、最高の娯楽になります。学校の怪談なんてものは、所詮そのような扱いです。
ただ、ユカちゃんの言う体育館の話はそういう雰囲気を一切持っていないものでした。
翌日から授業が始まり、一週間も経つと私はクラスに馴染んでいました。ある雨の日、いつも外でやっている体育の授業を、今日は体育館でやると休み時間に先生が伝えに来ました。騒がしかった教室の中はその瞬間、しん、と静まり返りました。その空気は先生にも伝わっているようで、
「まあ、何が起きても授業に集中するように」
とだけ言って職員室に戻っていきました。他の生徒たちは何かを小声で言い合って顔を見合わせています。小学校の休み時間の光景とは思えない異様さに私は驚き、ユカちゃんを見ました。彼女は苦笑いをして「チセちゃんも、気にしちゃ駄目だからね。何がいても無視するんだよ?」と囁きました。
“何がいても”……それは一体、なんなの?
聞けないまま体育の授業の時間を迎え、私たちは先生の指示に従ってチームを作り、ドッジボールをやり始めました。私のポジションは外野。ラインの外にこぼれたボールを拾い、内野の男子に投げていきます。背の高いユカちゃんも長い手足を使って大活躍。見学している他チームの子たちも大声を出して、試合は盛り上がりました。
しかし私は、そこに違和感を覚えたんです。たかが授業のドッジボール……それなのに、この妙な熱気はなんだろう。これまで行った小学校でもドッジボールはしていましたが、こんなに授業が熱狂することはありませんでした。先生の指導がいいから、というわけでもなさそうです。
相手チームにボールが渡り、私は少し暇になってぼうっとしていました。他の外野二人は、わぁわぁ声を上げています。
その時……ぞわり、と奇妙な感覚を覚えました。
あれ、おかしい……外野に、もう一人いる……?
そんな気がしたんです。私以外に外野は二人、でもすぐ近くに“もう一人いる”と感じました。見渡しても、誰もいないのに……。
みんなの声が聞こえます、大きく騒ぎ立てるような熱狂の声が……その意味を私はようやく知ることができました。
みんなは“もう一人の存在”を振り払いたくて大声を出しているんだ、と。気にしちゃ駄目、無視して……ユカちゃんが言っていた言葉が頭の中をぐるぐる駆け巡り、でも体はすぐ近くにいる“何か”を感じている。冷たい何かが体に触れているような心地悪さが、私にまとわりついていました。
何がいるんだろう、なんなんだろう……どこにいるんだろう。
そればかりが気になって、もう私はドッジボールどころではありませんでした。
「チセちゃん!」
内野からユカちゃんの声が聞こえました。ハッと我に返りそちらを見つめると、睨むような鋭い眼差しを私に向けていました。
「駄目、気にしちゃ。無視するの。そうしないと“連れていかれる”よ!」
どういうこと……?疑問を口にするより先にボールが飛んできました。ほら、当てろ当てろ!こっちに回せ!みんなが大きな声で騒ぎ立てます。先生も頑張れ頑張れと大声で応援します。無理やり声を張るみんなの異様さが、かえって体育館に不気味な空気を生み出していました。
それでも、私は従うしかありません。私もまた無理やり明るい声を上げてドッジボールに集中したのでした。
体育の授業の後、教室で着替えながらユカちゃんに問いかけました。あれはなんなのか、と。彼女は相変わらず曖昧に応えましたが、ぽつぽつと自分が知っていることを教えてくれました。
あの体育館にいると、必ず“もう一人”がすぐそばにいる気配がする。でも、それを探ろうとしたり気にしてはいけないと昔から言われている。過去に好奇心旺盛な子がそれを探ろうとして、行方不明になってしまったことがある……と。
「この周辺に住んでる大人はこの小学校の卒業生が多いんだけど、その人たちの話だとそういう事件は一度や二度じゃないんだって」
「行方不明になった、という事件が……?」
「うん。“連れていかれた”んだろうって言ってる」
「何に……?」
「さぁ、分かんない。ただはっきりしてるのは、あそこが“ヤバい体育館”だってこと」
その正体を探らない、気にしないというのは、この学校の暗黙のルールなのでしょう。私は進級する前に他の学校に転校してしまい、その後ユカちゃんや他の生徒とも会うことはありませんでした。
あの体育館にいたものが何なのか、今はどうなっているのか……気になるけど、行って確かめたいとは思いません。そんなことをしたら、私も連れていかれてしまうかもしれませんから。
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