これは私が産婦人科病棟に入院していた時の話です。
当時の私は、妊娠8ヶ月でした。
少し前から血圧がやや高め、という事で毎週通院して検査を受けていたのですが、ある時血圧がすごく高くなってしまって、とうとう入院する事になってしまいました。
家に帰ることも出来ず、急遽入院する事になってしまった訳で、不安と戸惑いでいっぱいでした。
生まれて初めての入院です。
案内された病棟のナースステーションで、看護師さんが連れて行ってくれた部屋は、ナースステーションから1番離れた部屋でした。
その部屋は入院患者の中でも比較的に症状が軽い人達の部屋で、病棟の1番端にあたります。
部屋は6人用の相部屋で、私の他に4人入院していてそれぞれの人に軽く挨拶をしました。
ベッド周りのカーテンは常に閉め切っており、挨拶した後は静かでした。
どうやら普段はお喋りすることは無く、静かに過ごしているようでした。
テレビで見ていたような相部屋同士ワイワイお喋りしたりはしないんだな、と人見知りなので安心していました。
その後急いで入院の準備をしてきてくれた夫と少し面会して、晩御飯を食べてあっという間に夜になりました。
ここの病院の消灯時間は21時です。
最初はシーンとしていた部屋も、その内誰かの寝息やイビキが聞こえてくるようになりました。
私は緊張で、まったく眠くなる気配がありません。
そういえば0時に看護師さんが見回りにくるんだよな、その時までに寝られないかな~と思いながら目をつぶっていました。
消灯してからだいぶ時間がたったとき、部屋の外から微かに唸り声が聞こえてきました。それはすごく苦しそうな声で「ウー、ウー、ウー」としばらく聞こえていました。
次の日の朝、顔を洗おうとカーテンを開けると、たまたま鉢合わせした向かいのベッドのHさんが「昨日の夜中、陣痛室に居た人の声凄かったね」と声をかけてきました。
どうやらHさんは唸り声で起きたようです。
私が「あれ、陣痛に苦しんでる声だったんですね。なんだろうと思っていました。」と答えると「陣痛室近いから、よく聞こえてくるんだよね」と教えてくれました。
昨日はバタバタしていて、病棟を見回る時間が無かったので気が付かなかったのですが、この部屋の向かいにあるトイレを挟んで、反対側に陣痛室があったのです。
陣痛が来た妊婦さんは、陣痛室で子宮口が全開になるのを待ちます。
全開になったらいよいよで、陣痛室から分娩室まで移動するのです。
しかしいつ全開になるかは人によります。
長い人だと12時間以上苦しむ人もいるそうで、真夜中でも陣痛に苦しむ声が聞こえてくるのです。
Hさん曰く、ちょくちょく声は聞こえてくるけどその内慣れるよ、とのことでした。その言葉通り入院生活が進むにつれ、たまに聞こえてくる真夜中の陣痛室の唸り声も気にならなくなりました。
大変そうだな~くらいには思っていましたが、気にせず眠れるようになっていきました。
病室の人達とも少しづつ喋るようになっていき、入院生活が少し楽しくもなってきていました。
そんな日が続いていたある日、夜中にふと目が覚めました。
スマホで時間を確認すると、深夜の2時過ぎ。
病室は真っ暗で、みんなの寝息が聞こえました。
変な時間に起きちゃったな~と思いながら携帯を弄っていると、部屋の外から「ウーーーウーーーウーーー」と唸り声が聞こえてきました。
あ、誰か陣痛室に居るんだな、と思いながらも特に気にせず携帯を弄り続けていました。5分くらい経った時でしょうか。
ふと違和感を覚えたんです。
なんだか声が、大きくなってきているようでした。
すごく、苦しんでるのかな?だんだん不安になってきてはいましたが、気にしないように務めました。
携帯を弄らずにもう寝よう、そう思ってスマホの画面を消すと、一気にあたりが暗闇になりました。
「ウーーーウーーー」
暗闇になったせいで、音の方に意識が集中してしまいます。
「ウーーーヴーーーーーーー」この時に思いました。
これは陣痛室からじゃない。
廊下から聞こえてきているんだ。
おかしな事に、こんなに大きな声で誰かが唸っているのに、看護師さんが駆けつけてくる様子も無ければ、声の主以外の誰の気配もありません。
明らかに異常な状態でした。
これは、普通じゃない。
そう思い始めると、一気に恐怖が込み上げてきました。
最初に唸り声が聞こえてきてから10分近く経っていたと思います。
どうやらその声の主はゆっくり廊下を移動しているようでした。
ナースステーションの方向から、私がいる病室の前の廊下の突き当たりに向かって動いているのだと気が付きました。
同じ部屋の人達は、静かに寝息をたてています。
唸り声は確実に近くなっていきました。
そして声が近づくにつれ、ヒタヒタと冷たい足音のようなものが聞こえてくるようになりました。
病室のドアは開いています。これはヤバイやつだと思いました。
心臓がバクバクして、手にかいた汗を固く握りました。
本当は頭から布団を被りたかったのですが、少しでも動くのが怖かったんです。
ただひたすら、目をつぶって聞こえないフリをするしかありませんでした。
唸り声は最初に聞いた声からどんどん低くなっていって
「ヴーー!!ヴーー!!!ヴーーー!!!」もはや叫び声に近くなっていました。
私は恐怖でガタガタ震えながら、ひたすら固く目をつぶりました。
しばらくすると唸り声は、私のいる病室前の廊下の突き当たりを曲がってトイレの前を通り、ゆっくりと陣痛室に向かって行きました。
そして急に静かになりました。もう何分息を殺していたでしょうか。
まだ春だと言うのに、私は大量の汗をかいていました。
そして声が聞こえなくなって安心したのか、驚くほどすぐに眠ってしまいました。
その日の早朝、血圧を測りに来てくれた看護師さんに、小声で夜中にあったことを話しました。
夜勤の看護師さんだったので、何か聞いているのではないかと思ったのです。
しかし看護師さんは、うーんと唸った後「夜中に陣痛室は使っていないし、ナースステーションに居たけど何も聞こえてこなかったよ」と言いました。
ナースステーションの近くに授乳室があって、夜中でも授乳にくる人が廊下を通ったりもするので、何かあったら誰かしらが気づいていたはずだ、と言うのです。
ではあれは私の夢だったのか。
そう思いましたが、2時過ぎに携帯を弄った事は確かなのです。
結局わからずじまいでしたが、看護師さん曰く、出産は絶対安全ではない。
今の時代でも出産で亡くなる人が居る。そしてここは病院。とのこと。
もしかしたら私が聞いた声は、出産で苦しんだまま亡くなった人の声なのかもしれません。
昔と違って今は安全。
そう思っている人が多いかもしれませんが、今の時代でも子宮内などの大量出血や、血圧が上がることからの脳出血などで、毎年決して少なくない数の妊婦さんが、出産時に亡くなっているそうです。
約10ヶ月、お腹の中に宿した我が子と会うことなく、この世を去らなければならなくなる、想像を絶する辛さでしょう。
未練を残しこの世に留まったあの声の主は、子供を探して深夜の病棟をさまよっているのではないか。そう思うととても胸が苦しくなりました。
その後1ヶ月ほど入院生活を続けて、無事出産し退院しましたが、あの唸り声を聞いたのはあの時の1回きりでした。
今でもふと、あの唸り声を思います。
そして自分が無事に出産出来たこと、これは当たり前ではないのだ、そう思うのです。
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