これは、私がまだ、小学校にあがる前の話です。
私がその当時、住んでいたマンションと、おじいちゃんの家は歩いて5分とかからない場所にありました。
そのお陰で私は、1日のほとんどをおじいちゃんの家で一緒に過ごし、すっかりおじいちゃん子になっていました。
おじいちゃんの家に泊まる事も度々あり、そんな日は、いつもおじいちゃんのベッドで眠るという具合でした。
大好きなおじいちゃんとの暮らし。
けれど、私にはその頃、不安に思う事がひとつだけあったのです。
それは、おじいちゃんの住んでいる、その家の事でした。
その家は、比較的大きな2階建ての木造の一軒家で、私が小さかった当時でも、とても古い家でした。物心ついた頃から、私には不思議に思う事がありました。それは、おじいちゃん達は何故か2階の部分だけで暮らしている、と言う事です。
私は何度か、おじいちゃんに聞いた事があります。
「どうして、下は使ってないの?」おじいちゃんはいいました。
「下は別の人の家だよ」家の引き戸の玄関を開けると広い土間になっていて、その土間の突き当たりに更に引き戸の扉がありました。
その左手に2階へ続く薄暗い階段があり、そこを上がるとおじいちゃん達の住んでいるスペースになります。
どう考えても二世帯住宅の造りではありません。
今考えて思う事ですが、多分1階部分は、主家だったと思います。
その証拠に2階には長い廊下づたいに部屋が3つ。
廊下の突き当たりの木の扉の向こうがトイレスペースになっていて、そのトイレも普通の家とは違い、奥に和式便器、手前に洗面所と男性の小便器が備え付けてありました。
そのトイレの少し手前を右に曲がると、サンルームとでも言うのでしょうか。
陽当たりのよい一角があり、そこから下を見下ろすと、1階の縁側と庭が見渡せました。
そして台所はと言うと、まるで名ばかりで、流し台がひとつあるだけの奇妙な状態で、おじいちゃんが、その台所部分に入りやすくする為に、押し入れと壁を無くして、コンロ等を置いて台所として使っていた、と言う感じでした。
1階の引き戸は磨りガラスになっていて、中はよく見えませんでした。
その引き戸には古い南京錠がかけられていました。
別の人の家と言っても、今は誰も住んでいない1階…。
時々おじいちゃんが、その南京錠を開けて室内を確認する事がありました。
その時に私も覗いてみた事があります。
モワーッと、古い木の様な匂いがしていて、家具等がそのまま置いてあり、奥にはガラス越しに庭が見えていました。
私はおじいちゃんの後ろにぴったりとくっついて隠れ、隙間から中を覗き込んでいました。
そうしなければ、何故か何者かから背中を押され、その部屋の中に転がる様に入って、扉を閉められるのではないか。
何故かそんなイメージが、頭の中にあり、普段、土間から2階へあがる時も、とにかく慌てて階段をあがる、という感じでした。
しかし、本当に怖かったのはそんな事ではなかったのです。
ある夜の事、おじいちゃんと一緒にベッドで寝ていると、ふと、目を覚ましました。おじいちゃんは横で寝ています。
ベッドのすぐ下には、おばあちゃんが布団を敷いて寝ていました。
4段位の低いタンスが3つだったか、並んで置いてあるのですが、何故だか凄く違和感を感じました。
くいっ…と、首だけを右に向けてタンスの丁度真ん中辺りに目をやると、無機質な目が、じっ…とこちらを見ていたのです。
そう、それはそこにある筈のない市松人形だったのです。
市松人形は赤い着物を着て、明るい、とまではいきませんがボウ…とまわりが鈍く光った様に見えていました。
その当時は市松人形という名前すら知りませんでしたが、不気味な人形だとは認識していました。
私は隣に寝ているおじいちゃんを必死で起こしました。
「おじいちゃん、人形がある…怖い…」
おじいちゃんは寝ぼけているのかなかなかしっかり起きてくれません。
目を開けて私の方も見ずに「大丈夫だから。寝たら大丈夫だから…」といって宥めるばかり…。
(怖いよ…怖いよ…)おじいちゃんの寝ている方へ身体を向け、顔をなるべく布団に埋める様に伏せました。
するとズッ…!?何かが蛍光灯の豆電球の光を、遮っているのを感じ取りました。顔をあげて見なくても、何かの気配を異常に感じます。
その市松人形は音もたてずにすぐ私の頭上まで来て、私の顔を覗き込んでいる…そんな気がしたのです。
私は、とにかくギュウッと瞼を閉じ、必死で眠ろうとしました。
どの位の時間、そうしていたかはわかりませんが、いつの間にか眠ってしまい、次に目が覚めた時は朝になっていました。
おじいちゃん達に一所懸命に人形の事を話すのですが、みんなは「おそらく夢を見たのだろう…」ぐらいにしか取ってもらえず、おじいちゃんは、私が起こしたすら全く覚えていませんでした。
そもそも市松人形という名前を知ったのはそれからずいぶん後の事で、その時は「着物を着た黒い髪の人形」だと、必死で訴えていました。
市松人形を見てからどれくらい経ったのか…私はある日、サンルームから、そっと下を見下ろしていました。
あっ!!すると1階の縁側付近に何かがブラブラと下がっている!?
女の人…!?長襦袢の女が、両手をだらりと垂らしたまま、びくりとも動かずに首を吊って下がっているではありませんか!?
しかし次の瞬間、私は1階の縁側に立っていました…ギシッ…ギシッ…と音を立てて、ぶら下がった女の膝から下の部分が、私の顔に当たってきます。
(ひぃーっ!怖いよっ怖いよーっ!)
声も出せず、心の中で必死に叫んでいると…はっ!!気付くとおじいちゃんのベッドの上…
(夢か…え…!?でも、もしかして…!?)
私は急いで縁側の見下ろせるサンルームへ行きました。
恐る恐る下を覗き込みましたが、何処を見ても、それらしいものはぶら下がっていません。
(はぁーっっ!!よかった…)
私はどうやら、その時、怖い夢を見たのでしょう。
大人は信じてくれませんでしたが、市松人形を見て想像力だけが膨らんだ様でした。
それから、小学校に上がる頃に、私は、おじいちゃんの家からは随分、離れた所へ引っ越しをしました。
それから少し経つと、その家のある一帯は立ち退きが決まり、おじいちゃん達はそこから然程離れていない所でしたが、引っ越しをしました。
その家のあった場所には、スナック等の店舗が入ったビルが立ち、すっかり変わってしまいました。
私も大きくなるにつれ、その話も段々としなくなり、ただ、ずっと忘れずに、心の片隅には留めていました。
20歳になった頃、大好きだった、おじいちゃんが亡くなりました。
おじいちゃんの葬式で親戚が集まり、皆は、昔の話をしていました。
私の知らない時代の話です。
興味があって、近くでそれを聞いていました。
その時でした。誰かが、おじいちゃんの、あの家の話をし始めたのです。
それは、私の知らなかったあの家の暗い過去でした。
あの家は、おじいちゃんが見つけて借りた、賃貸契約の家でした。
おじいちゃん達が引っ越して来た当時は、1階にとても高齢のおばあさんが、ご主人を亡くされて、一人で暮らしていたそうです。
ご主人がおられた頃には2階の部屋もその夫婦が使っていたそうで、ただ、あの家には一人娘が居たそうなのですが、行方不明になっていたそうです。
おばあさんは、心不全で倒れるまで、あの家で、ずっと娘さんが帰ってくるのを待っていたとか…ただ、親戚の皆の話では、その娘さんは気がふれていたとか、男と駆け落ちしたとか、そんな事を面白がって話していました。
私は、その話を聞いても黙っていました。
あの幼い頃の私の出来事は、だれにも話してはいけない様な気がしたからです。
縁側で首を吊っていた女性、あれは、その居なくなった娘さんではないかと思います。
その娘さんが、幼い私に、市松人形を見せ、何を訴えたかったのかはわかりませんが、どうしても娘さんの悲惨な最期は知られてはならない、そう思い私は最後まで口を閉じたままで、その話を聞いていました。
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