authorized by 浅倉喜織

異界から来る者

母の実家は山と海に恵まれた豊かな場所でした。

 日本のどことは言えませんが、狭くて小さくて……自転車があればどこにでも行けてしまうような、そんな場所でした。

 村と呼ぶのに相応しい田舎の風景というものは、毎日毎日眺めていると飽きてしまうものですが、私がその村に行くのは夏休みや冬休みといった長期休みの時ばかり。だからこそ良かったのでしょう。あそこで生まれ育っていたら、こんな田舎は嫌だ。いつか出ていってやると言って、両親を困らせていたと思います。

 大人になった今思い返すと、あの村で体験したことは、東京では絶対に得られない貴重なものだったと分かります。

 海水浴、山登り、初めての海釣り、山菜採りのお手伝い、村祭り……私の記憶の中で、どれもキラキラと輝いています。

 しかし一つだけ。なんとも不気味な記憶も私の中にはあるのです。

 それはキラキラ輝いくどころか、どす黒く、鬱蒼として……粘着質な気味悪さがまとわりついた、嫌なものです。

 幻だった、悪夢だったと言い聞かせることも出来ますが、それを体験したのは私一人ではなく、私の二歳年下の妹も一緒に体験しているのです。

 私が小学五年生の夏休み、あの田舎の村……T村で体験したことは、間違いなく現実のものでした。

 その年の夏休みは、私と母と妹のミキの三人だけでT村を訪れました。毎年父も一緒なのですが、どうしても休めない仕事が入ったと言って女三人で行くことになりました。

 ミキは「お父さんいないの寂しい」とずっと車の中で言っていましたが、思春期に片足を踏み入れていた私は父の不在に何も感じないどころか、清々した気持ちすら抱いていました。

 東京に帰った後、父が私たちに何を言うかも容易に想像できました。

 どうせ「アヤ、ミキ。おばあちゃんの家はどうだった?何をして遊んで来たんだい?」と聞くに違いない……。

 それを思うと、清々しかった気持ちは途端に苛立ちへと変わり、車窓から見える高速道路の風景を眺めては溜め息をついていました。

 朝に東京を出て休憩を挟みながら高速道路と山道を走り続け、T村に到着したのは午後四時を過ぎた頃でした。
 夏の盛りを象徴するかのような太陽は、まだ落ちる気配も見せず、海と山と家々にありったけの暑い日差しを降り注いでいました。祖父母の家は海沿いから緩やかな坂を上った場所にあり、村の中では「山側の地区」と呼ばれるところに位置していました。古く青い瓦屋根の祖父母の家に着くと、彼らは皺くちゃの顔にさらに皺を刻んで私とミキを歓迎してくれました。

「よく来たねぇ。ちょっと見ないうちに大きくなって。久し振りに来たんだから、いっぱい遊んで行ってねぇ」

 東京ではまず聞かないようなゆったりとしたイントネーションで、祖母は言いました。大人ぶりたい年頃の私は、ぎこちなく笑って頷いていましたが、まだはしゃぎたい年頃の真っ只中にある妹は、祖父母に抱き着いて早口でまくし立てました。

「あのね、おばあちゃん。あたし、花火やりたい!あとスイカ割りもしたい!花火、花火!」

 母と私が嗜めても、ミキは「今夜やりたい!」と駄々をこねました。これには祖父母も苦笑い。

「ミキちゃん、花火したいのか。そうだねぇ。じゃあ、明日やろう。今夜はちょっと霧が出そうだから、花火をするのは危ないかもしれないからね。明日のお昼にじいちゃんとスイカ割りして、夜はみんなで花火をしよう。な?」

 優しく祖父が言い聞かせると、ミキは渋々それに頷きました。
 私は祖父の言った言葉に、少しだけ違和感を覚えました。「霧が出そう」という言葉です。
 空は千切れた雲が浮かぶ夏らしい青空。張り付くような湿気も風に含まれていません。時折吹く風には、ほんのりと甘みを含んだ潮の香りが乗っていました。
 まるで霧が出るような天気じゃないのに……。

「おじいちゃん、霧なんて出るの?こんな晴れてるのに」
「アヤちゃんは賢いね。もう五年生だから、理科の授業で色んなことをお勉強したのかな?でも今夜は霧が出るんだよ。そういう夜だからね。だから、夜になったら外に出ないようにするんだよ。霧の中を歩いていたら危ないからね」
「あぁ、今夜は霧の日か。アヤ、ミキ。面白がって外に行くんじゃないよ?勝手に行ったら、お母さん怒るからね」

 私は最初、わがままを言うミキを黙らせるための方便だと思いました。母もそれに合わせているんだと……。しかし、祖父と母の言葉は方便には思えない慣れのようなものが滲んでいました。
 こんな晴れてる夏の日に、霧だなんて……。奇妙な引っ掛かりを胸に残したまま、私は車から荷物を下ろして家の中へと入って行きました。

 その日は早めにお風呂に入り、祖母が腕を振るった豪勢な料理が食卓に並びました。新鮮なお刺身に大きなエビフライ、げんこつのような唐揚げ、野菜たっぷりの田舎汁、祖母手作りのアイスクリーム……。家にいる時は「私、ダイエットしなきゃ」なんてマセたことを度々口にして母に呆れられていた私ですが、この時ばかりは大興奮でご馳走を口と胃袋に詰め込んでいました。
 そんなことをすると、眠気がいつもより早く襲ってくるものです。移動の疲れや早めにお風呂に入ったせいもあるのでしょう。私とミキは早々に寝室に引っ込んで、敷かれた布団の上でゴロゴロしていました。
 窓の外はすっかり暗くなり、部屋の中もどことなく肌寒い感じがしました。

「もう寝ようよ。お姉ちゃん、カーテン閉めて。なんかちょっと寒い」

 ミキに布団を被せて、カーテンを閉めようと窓際に立ち……見えた光景に息を呑みました。
 霧が、出ていたのです。うっすらと霞むようなものではなく、濃霧と呼べるほどの濃い霧が坂に並び建つ家々を飲み込んでいました。この部屋の窓からは、海沿いへと続く細い坂道と微かに海が臨めます。しかし、坂道の石畳みは霧によって白く彩られ、海もまた漂う霧によって擦りガラス越しに見ているような曖昧さがありました。

 何……?この霧は……、お昼はあんなに晴れてたのに……

 祖父の言葉が真実だったことと現実味のない天候の急変に、私は戸惑いを隠せませんでした。このような光景は、祖父母の家に来て初めて見るものだったのです。
 眠たそうに唸っている妹の声が気になり、私はカーテンを閉めて布団に潜りこみました。
 なんだか、不気味だ……。そんな気持ちを胸に抱いたまま、意識は眠りの世界へと落ちて行きました。

 奇妙な物音で、私は夢の世界から現実へと引きずり出されました。
 真っ暗な空間の中で目を開くと、ミキが私の隣にぴったりとしがみつき、泣き出しそうな目で私を見つめていました。

「どうしたの?ミキ」
「お姉ちゃん、なんか……変な音がする」

 息を殺して、耳を澄ませます。

 ざり……ざり……、ざりざり……

 引きずるような聞き慣れない音が耳に入って来ました。目で「これのこと?」とミキに問うと、彼女は小刻みに頷きました。
 夢の中で私も聞いたような音でした。この音で、私は目が覚めた……。
 その音は規則的で、足音のようでもありました……摺り足というものです。確かに耳に入るけど、家の中から近付いて来るものでもない。
 私は意を決して布団から飛び出し、カーテンの隙間から窓の外へと目を向けました。怖がっているミキも、私に張り付いて窓の外を見つめます。
 辺りの家々から明かりが消え、外は深い闇と濃い霧に満ちていました。そんな状況でも、人間は不思議なもので見つめれば見つめるほど目が闇に慣れてきます。ぼんやりと辺りの様子が確認できるほど目が慣れて来た時、ふと坂道の方へと視線を向けました。

 そこには、異形の者たちの行進が繰り広げられていました……。

 一瞬私は、何が何だか分かりませんでした。幻か、悪夢か、錯覚か……呼吸が止まってしまうんじゃないかと思うほどの衝撃に打ちのめされ、息を呑んでそれを見つめていました。

 濃霧の中にぼんやりと浮かぶ、三つ首の人間たち。蜘蛛のように蠢く大きな虫。大きなマントを被ったようなぬるりと進む影。翼が生えたうさぎのような影……。

 ざりざり、と気味の悪い摺り足で、彼らは海へと向かって霧の中を真っ直ぐに行進していました。

「お姉ちゃん、あれ……何?」

 掠れた震える声で、ミキは私の腕を痛いくらい掴みました。私にも分からない……想像もつかない。
 ただ唯一分かるのは、これがこの世のものではないということだけです。
 外に出てもっと見てみようなんて思いませんでした。本能的な何かが、これは危険だと私に告げていたのです。祖父や母が言っていた「外に出ちゃいけないからね」は、このためだったのかと……。

「ミキ、お姉ちゃんと一緒に寝よう。駄目だよ、気にしちゃ……」

 私の声も情けないくらい震えていました。妹の頭を撫でて窓から離れようとした、その時……

 行列の中の光る眼と、目が合いました……。

 それは摺り足で坂道を下る集団の中で、ぽつんと立ち止まり、じぃっと霧の中から私を見つめていました。私が眺めてる姿を見つけたかのような……黄色い小さな両目らしきものは、瞬きすらせずに私を捕らえていました。
 思わず漏れそうになる悲鳴を必死に飲み込んで、窓を離れて布団を頭から被りました。妹を抱きしめて、大丈夫……大丈夫……とミキに囁き、自分にも言い聞かせながら、見てはいけないものを見てしまった恐怖に震えながら、私は夜を明かしました。

 翌日、祖父は約束通りスイカ割りをするため海に連れて行ってくれました。正直私は、昨夜の食べ過ぎと寝不足で体が怠かったのですが、私たちの喜ぶ顔が生き甲斐になっている祖父に断ることが出来ず、妹と祖父と母と共に家を出ました。
 昨夜の霧が嘘だったかのように、空は真夏の濃い青空が広がり、蝉は喧しいほどの鳴き声を空に響かせていました。
 家を出た私は、やはり昨夜の光景は夢だったのではないかと考えていました。そう、あんなもの……現実にあるはずがない。怠い体でサンダルを履いていると、浮き輪を持った妹が坂道に呆然と立っていました。

「ミキ、そこ立ってたら邪魔だよ」

 私が近付くと、ミキは顔を真っ青にして私を見上げました。

「お姉ちゃん、昨日のあれ……夢じゃなかったんだ」

 妹が石畳みを指差し、私はそれを見て思わず口を押えました。
 石畳みの上には、うっすらと摺り足をしたような黒い足跡が……海へと続いていたのです。いくつも、いくつも……。
 やっぱりあれは現実だった。その事実に、私たちは言葉を失いました。その時、祖父と母がスイカや荷物を持って私たちの方へとやって来ました。
 
「アヤ、ミキ。行くよ。どうしたの?そんな顔して」
「お母さん、あのね。昨日の夜、ミキとお姉ちゃん怖いの見たの」
「夜?どうしたの?」
「あのね、霧の中にね、変なのがいっぱい歩いてて……」

「あぁ、そりゃアチラさんだよ」

 祖父が驚きもせずに口を挟みました。まるで見たことのない魚の説明をするような、あっけらかんとした様子に、私と妹はかえって気味悪さを覚えました。

「そうよ、アチラさん。あれはアチラさんだから、外に出たら連れて行かれちゃうからね?」
「待ってよ、お母さん……私とミキが見たアチラさんって何なの?連れて行かれるって……」
「そりゃどこって、あちらによ」

 いつもと変わらない母だからこそ、余計に違和感がありました。
 アチラさん……それがあの異形の者たちの呼び方なのでしょうか。連れて行かれるという、あちらとは……一体どこなのか。
 聞きたいことは山ほどあるのに、私も妹も言葉に出来ず、促されるまま海へと向かいました。

 あの夏の夜以降、私も妹もアチラさんとやらを見ていません。それについて母や祖父母に聞くことも出来ませんでした。聞くのがどうしても怖かったのです。
 しかし、あの後T村から東京に帰った私は、仕事で来れなかった父に「おばあちゃんの家はどうだった?」と予想通りの質問をされました。いつもなら「別に」と反抗的に言ってしまう私でしたが、この時ばかりは父にあの夜見たことを話しました。
 笑い飛ばされるとさえ思っていましたが、父は顔を青くして呟きました。

「アヤもミキも、本当に見たのか……僕だけじゃなかったのか」

 どうやら、父も私と妹と同じものを見たことがあったそうです。その話を詳しく教えてくれたことは、今でもありません。
 T村には異世界への入り口がある……そんな考えが、今も私の中に燻っています。

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