僕には弟がいたらしい。
双子の弟だ。
らしい、というのは、弟に関する記憶を僕が何も持ち合わせていないから。
産まれたあとすぐに死んでしまったのだ、と父さんが言っていた。
もともとからだの丈夫でなかった母も、産後徐々に体調を崩し、後を追うように亡くなってしまった。
これも父さんから昔聞いた話だ。
僕には、ふたりを思い出すことはできない。
父さんも語りたがらない。家のなかには写真もアルバムも見当たらないし、部屋のどこをとっても母さんが使っていたような物は置いていなかった。
ただ広いだけのつるりとした無機質な部屋。
インテリアもどこかよそよそしい。
家は定期的に来るハウスキーパーによって隙なく整えられ、生活感というものをあえて入り込ませないようにしているかのようだ。
きっと処分したのだろう、と僕は思う。
それが愛する妻を失った悲しみからなどではないのは明らかだ。
父さんにとっては、代えのきかないものなどこの世にありはしない。
昔飼っていた魚が死んでしまったときも、うずくまって泣いていた僕に、「感傷なんてバカバカしい」と吐き捨て、その日のうちに新しい魚をどこからか調達してきたのだ。
魚なら何でもいいのだとたぶん本気で思っている。
父さんはおそらく僕が嫌いだ。
なぜって、僕はちっとも頭がよくないし、おまけに引っ込み思案だ。
運動もこのうえなく嫌いだし、ピアノだって始めて1週間で音をあげた。
父さんに憐れむような目を向けられると、僕はたまらなく悲しくなる。
弟が生きていたら…そんなふうに思われているような気がして、水のなかに沈んでいくような息苦しさを感じる。
鈍くさくて友だちのいない僕にとって、皮肉なことに、父さんが買ってきた魚が唯一の話し相手だった。
体長が僕の身長と同じくらいある大きな魚。たぶん熱帯魚。
でも、種類はわからない。僕は彼を「時雨」と呼ぶ。
壁にはめ込まれた分厚い巨大水槽のなかで、時雨は退屈そうにゆったりと泳いでいる。
からだをひねるたびに、銀色の鱗がきらりと光って美しい。
「時雨」と僕が呼びかけると、彼はこちらに右目を向けてじっと僕を見た。
不思議なやつだ。僕の言葉がわかるみたい。
「食べる?」と解凍した小魚を見せると、時雨はふいっと顔をそむけて泳ぎ去ってしまった。
小魚を入れたバケツを冷蔵庫に押し込み、僕は水槽の前に座り込んだ。
そして、読み聞かせをしてやる。
人間になりたかった猫の話だ。
時雨は相変わらず泳ぎ回っていて、聴いているのかいないのかはわからなかったけれど、とにかく最後まで読んで聞かせた。
「ねえ、時雨」と僕は本を閉じて、時雨の姿を目で追う。
「きみは人間になりたいと思ったことはある?毎日同じ水槽のなかを泳ぐっていうのは想像以上に退屈なことかもしれないけど、僕は時雨がうらやましいな。だって、授業もテストもないし、ひとりで好きなだけ空想していられるじゃないか。父さんに失望されることだって―」僕の言葉を遮るように、インターフォンが鳴った。
ピンポーン、ともう一度鳴る。
モニターに映っているのは見たことのない女の人だった。
ああ、きっと新しいハウスキーパーだ。
父さんはあまり家に帰ってこないわりに、彼女たちをすぐにクビにしてしまう。
玄関のドアを開けると、女の人がにっこり笑って、名刺を差し出してきた。
佐々木ふみ子。それだけしか書いていない変な名刺。
「佐々木さん…は、新しいハウスキーパーさんですか?」
僕がおそるおそる尋ねると、彼女は大きく頷いた。笑顔が素敵な人だ。
どうぞ、と家のなかを手で示すと、黙ったまま小さく頭を下げて入っていった。
もしかしたら彼女は口がきけないのかもしれないな。掃除用具の場所を教え、いくつか注意事項を伝えると、佐々木さんはテキパキと掃除や洗濯をし始めた。
これまで来た誰よりも手際がよかった。
その間、僕は大人しく絵を描いていた。人魚の絵だ。
顔がなんだか佐々木さんに似ている気がしておかしかった。
鱗を描き足していると、佐々木さんが僕にメモ帳を差し出した。
お風呂を沸かしたので入ってください。
入ってください?僕は困惑して彼女を見上げた。
「あの、まだ朝ですよ。それに、僕はいつもシャワーしか使わないんです」
僕がそう言うと、佐々木さんは少し考えるような表情をして、さらさらとメモ帳に書き足した。
旦那さまのご命令ですので。
「え?父さんが?」びっくりして訊くと、彼女はきっちり頷いて、今度はキッチンに行ってしまった。
事情がうまく呑み込めないけれど、僕には風呂に入る以外の選択肢はないみたいだ。仕方ない。父さんの言うことは絶対なんだから。
考えてみれば、自宅の湯船に浸かるのは久しぶりだった。
沸かすのもあとで洗うのも面倒だし、だんだん湯が冷めていく感覚がどうも好きになれない。
石鹸を泡立て、顔を洗い、髪を洗い、からだの隅々まで洗った。
ザバーッと頭からお湯をかけると、とても気持ちがよかった。
湯船に浸かると、からだをお湯がやさしく包み込んでくれる感じがして、僕はうっとりと目を閉じた。ああ、気持ちがいい。
いつの間にかうつらうつらしていたようで、ハッと目が覚めたときには、お湯がすっかり冷めてしまっていた。
ぶるっと体が震える。追い炊きでもしよう。
ボタンを押そうと手を伸ばしたとき、僕は違和感に気づいた。
からだが動かない。水が蔦のように僕のからだに絡みついている。
必死でもがこうとするほど、底なし沼のように引きずり込まれていく。
なんだ、これは。
水温もどんどん下がっていき、指先にうまく力がはいらなくなっていく。
叫ぼうにも、声が出ない。
佐々木さん、お願い、来てよ。
悲鳴はただの細い息になって蒸気のように消えてしまう。
そのとき、バスタブの底から何かが浮かんでくるのが見えた。
ぼっかり開いた黒々とした闇。小さかった影が急速に広がっていく。
恐怖で目を見開いたまま、それを見つめる。
魚だ。脚の間をひれがこすり、水面に背びれが氷山のように突き出す。
ゆっくりと、さらに浮上し、魚は完全に顔を水面に出した。
水滴のついた鱗が、風呂場の照明できらりと白銀に輝く。
「時雨」と僕は震える唇を動かす。なんでここにいるんだ?これは僕の夢なのか?訊きたいことはたくさんあるのに、シューという空気の音しかしない。
「これでいいんだ」と誰かが僕の頭のなかに直接話しかけてくる。
僕と同じ、まだ声変わりのしていない男の子の声だ。
「だってきみは僕がうらやましいって言ったじゃないか。きみは僕に訊いたよね、人間になりたいかって?答えはイエスだ。僕のほうがもっと優秀になれる。これでいいんだ」
怖くて首をガクガクと振り続ける僕に、時雨は憐れむような表情を浮かべた。
やめろ。父さんと同じ目で僕を見るな。
ひるんだ僕はバスタブの縁を掴む力を緩めてしまった。
あっ、と思う間もなく、僕は暗く冷ややかな闇の底へと引きずり込まれていった。
誰かの話し声がする。水のなかにいるような、ぼんやりとした聞こえ方。
今度は笑い声。この区切るような笑い方は父さんだ。おかえりって言わなくちゃ。じゃないと怒られる。
ふっと目を開けると、目の前にガラスがあった。分厚い水槽。
その向こう側に父さんの背中が見える。
いつの間にか僕は水槽の内側にいた。
お願い、ここから出して。ガラスを叩こうとして、手がないのに気づいた。
足もない。代わりにあるのはひれだった。
動かしてみるとすいすい体が前に進む。
水泳の授業で溺れかけたなんて嘘みたいに。僕は、魚になってしまった。
時雨がやっていたように右目を寄せると、ちょうど父さんと向かい合っている人物の顔が見えた。
その顔を見て、僕は凍りついた。まぎれもなく、僕の顔だった。
僕の顔をしたそいつは、ふとこっちを見て、僕と視線を合わせた。
それから父さんに何かを言い、父さんはそいつの頭をなでて部屋から出ていった。
視界から消える前に見えた父さんの横顔は、僕には見せたことのないほど上機嫌だった。
僕が…いや、僕の顔をした偽物が勝ち誇ったような表情で近づいてくる。
どうだ、見ただろう、とでもいうように。
そいつは小魚の入ったバケツを顔の横にかかげて、にやりと笑った。
「さ、エサの時間だよ。お兄ちゃん」
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