authorized by Alisawa

ほころび、滅びゆくは彼女の誇り 後編

彼女のまとう透明な空気がぎゅっと圧縮されて槍のように鋭く私を突き刺す。
ほんの一瞬のことだったけれど、たしかにその矛先は私のほうを向いていた。
足がかりすらないと思っていたつるりとした壁には、ほんとうは見えないほど微かな扉の割れ目が存在していた。

ほころびはいつか表に出る。今なら彼女が閉め切っていたドアをこじ開けられるかもしれない。

私は静かに時が満ちるのを待っていた。
ただ、静かに。
八神しずるが崩れていくのを待っていた。

その日、彼女は様子がおかしかった。
いつもの余裕のあるフレンドリーさにぎこちなさが混じり、そんな自分にどこかイライラしているように見えた。

まるでマリオネットの糸が絡まって手足が思い通りに動かないみたいに。八神しずるらしい揺らぎ方。

彼女が教室から出ていくところを私に見られたのはその動揺ぶりを物語っているように思えた。

私は彼女のあとをそっとつけていった。
昇降口を出て、まっすぐ進み、それから何度か角を曲がった

いつの間にか人通りも少なくなり、ローファーのコツコツという音が響く。

さらに間隔をあけながら慎重についていくけれど、彼女は一度も振り返るそぶりさえ見せず、淡々と優雅な足取りで歩き続ける。

組み込まれたプログラムに沿って歩くような正確さを保ったまま、彼女は植物が両側から覆いかぶさるように生えている細い路地を突き進んでいく。

あ、この道の先はたしか。

遅れて路地をぬけた私の目に、一軒の古びた洋館が飛び込んできた。

噂に違わぬ不気味な建物。

全体を蔦でおおわれているうえ、よほど手入れをしていないのか、窓にまで蔦が這っていて外からは内部をうかがうことはできない。

その蔦のところどころに、まるできつく締めつけられているように、大きさも種類もばらばらな人形たちが飾られている。

腰のあたりにツルが巻きついた彼女たちは両手をだらりとさげ、どこか虚ろな表情でこちらをじっと見ているような気がする。

それが、ここが人形屋敷と呼ばれるゆえんである。

植え込みのタチアオイの陰からそっとうかがっていると、八神しずるが足を止めることなくドアを開いて中に入っていったのがわかった。

インターフォンも押さず、あとで鍵をかけた様子もない。

これはチャンスか、それとも災いの前兆か。

私は急に尻込みして、あと5分だけ待つことにした。

あと5分。なにも起こらなければ、私はあの中に入る。

腕時計を見ながら、私は息をゆっくり出し入れして心を静めた。

あたりはおそろしいほどの静寂に満ちていた。誰の声も聞こえず、なんの物音もしない。

息をする自分の呼吸音だけが耳障りなほどよく聞こえていた。

時計の短針がきっかり5周するのを見届けてから、私は意を決して人形屋敷の扉を押し開けた。

建物のなかは思ったよりも広く、思ったよりも清潔だった。

ボロボロの汚い外観からは想像ができないほど、隅々まで掃除が行き届いていて、どこもかしこもつるりとしていた。

私は玄関で立ち止まったままぐるりと見まわした。

天井が高く、十字に組まれた梁が美しい。小さめの油彩画がいくつか壁にかけられ、どれにも年端のいかない少女たちが描かれていた。

ここだけ妙に明るいな、と思ったら、今入ってきたドアの上部がガラスになっているのに気づいた。

両側にのびた廊下の奥は薄暗く、ひたひたと闇が近づいているような感じがする。

ぶるっとからだが震える。廊下を進むごとに気温が下がっていくようだ。

じめじめとして、うすら寒い。

ぎゅっと手を握り締めると、こわばったからだにじんわりと温もりが戻ってくる。

そうだ、こんなところで立ち止まっている時間はない。

私には確かめなければならないことがある。

まずは、八神しずるを探さなければ。

とにかく音をたてないように用心して、部屋を一つずつ見ていく。

ドローイングルーム、ビリヤードルーム、キッチン、食堂、書斎…まったくいくつ部屋があるのかと気が遠くなったけど、結局どこにも八神しずるの姿はなかった。

意外だったのは、1階にはほとんど人形らしきものが置かれていなかったこと。

人形屋敷なのに。

もっと恐ろしい思いをするのではと構えていたので、ちょっと気が抜けてしまった。

それにしても、この屋敷の主はどこにいるのだろう。

噂では、ほとんど中にこもったままひとり人形をつくって暮らしていると聞いたけれど。

なにしろ誰もその姿を見たことがないから、どんな人かはおろか性別さえわからないのだ。

ふと、ある考えが頭に浮かんでくる。

八神しずるがその人なのではないか。

この2階のどこかで彼女が人形をつくっているのではないか。

じゃあ、母親といったい何の関係があるんだ。

母と関連付けようとした途端、私の憶測は糸が切られたようにぷっつりと途絶えてしまう。

とりあえず保留にして、先に進もう。

螺旋階段を上って2階へ行く。さっきよりも闇が濃くなった気がする。

日が暮れる前にここを出なければ。

少し焦る気持ちで開いた扉の先に、見覚えのある赤い着物がちらりと見えた。

ぐいっとドアを押し開け、引き寄せられるようにふらふらと近づいていく。

トルソーが着ていたのは、やはり八神しずるが写真の中で身にまとっていた赤いちりめんの小袖だった。

近くでみると赤一色ではなく、着物全体に氷のような割れ目が走り、その上に真っ赤な梅の花が埋め尽くすようにびっしりと散らしてあった。

ぞわりといっせいに鳥肌が立つ。

美しく、そして同時に恐ろしくもある。まるで、彼女のような―

「あかねさん」

突然うしろから声をかけられ、心臓がびくりと飛び跳ねた。

一瞬母親に呼ばれたのかと思ったけれど、「で、よかったかしら?」と念を押すような言葉にハッとする。
ここにいるとすれば。

振り返った私の目に、美しいセーラー服の少女が映った。
八神しずる。

彼女はそこに、まるでずっと前からいたみたいに佇んでいた。

「私に何か用かしら。それとも彼に用があるの?」

窓ガラスに這う蔦の隙間からさしこんでくる淡い夕暮れの光が、表情のない能面のような顔を照らし出す。外壁にくくりつけられた人形たちのように虚ろだが、彼女の瞳は生きた強い光を放ち、こちらをえぐるように見つめる。

「彼?彼って誰?」

気圧されるように聞き返すと、彼女の表情がほんの少し動いた。得意げな調子で滑るように言う。

「彼は人形師。人形をつくって、命を吹き込むの。彼は私を生み出した人。それから」

彼女はそこで一度口をつぐんだ。唇の端を歪め、カッと目を怒らせた。今度はもう敵意を隠そうとはしなかった。

「それから、それから…あなたのお父さんでもある」

低く抑えつけた声が私の耳を通り過ぎ、燃えるような瞳が私をねめつける。

お父さん?私の?
混乱する私をよそに、八神しずるはこれまでの鬱憤を晴らすかのように荒々しく言い募る。

「美しいものに酔いしれ、支配する強さを善として崇め、不完全な物語をつくり続ける。それがこの世の道理というものでしょう?完璧さだけがそれを超越するの。彼が目指すところはそこにある。作品こそは彼の理想…なのに、あなたには失望したわ。とんだ出来損ないね。あなたの存在意義って何かしら」

彼女はつかつかと私のほうに近づいてくる。声にならない悲鳴を上げて後ずさった私の横を通り過ぎ、赤い着物の前に立った。

目を細め、たおやかな手つきでさらりと表面を撫でる。

「美しい着物でしょう。私によく似合ってる。彼女もそう言ってくれたわ」

八神しずるの視線が自分から外れているせいか、私は少し冷静さを取り戻すことができた。

脳の組織が正しく組み換えられ、絡まった思考が解かれていく。

彼女、というのはおそらく私の母親だろう。この着物を着た八神しずるの写真を持っていたのだから。

しかし、彼女たちの間にどんな接点があるというのだろう。考えられるとすれば私くらいしかいないけれど。

再び同じ壁にぶち当たる。パズルのピースが足りないのかもしれない。それならどんなに時間があっても絵は完成しない。

私がその疑問を口にすると、八神しずるは着物に手をかけたまま、心底呆れたまなざしを投げて寄こした。

「あなたってほんとうに馬鹿なのね。欠けてるのはパズルのピースじゃなくて脳の細胞じゃないの?すべての糸を操っているのは彼にきまってるでしょう」

何を当たり前なことを、と言わんばかりの表情を浮かべる八神しずる。口を開けば私をこき下ろしてばかりいる彼女に腹が立たないといえば嘘になる。できるなら早く立ち去ってしまいたいけれど、私は意識的に彼女の存在を頭から追い出して平静を保った。八神しずるがいつもしていたみたいに。

馬鹿にしたいならすればいい。

私にはひとつ明らかにしなければならない真実がある。

今、自分の感情のせいで機会を逃したら永遠にそれを知ることがかなわなくなるような気がした。

「じゃあ、私のお母さんと彼はどういう関係なの?」

あくまで冷静に、平常心で。

疑問に不純物を混ぜてはいけない。

八神しずるはため息をついて「あのねえ、だからあなたの両親だって…」と言いかけて、ふと覗きこむように私をしげしげと見つめた。

「あなた、なんにも知らないのね。…そう、そうね…」

彼女はうつむいてひとしきり何かブツブツ呟いていたが、また顔をあげると、

「いいわ。話してあげる。あるとわかっているものは何にせよ知っておくべきだわ」

そう言って、彼女は私の知らない物語をまるで見てきたかのような口調で、懐かしむように語ったのだ。

「美代ちゃん」と彼はその少女に呼びかける。

呼ばれた少女は顔をあげ、ちょっと首をかしげる。手には可愛らしい人形を抱いている。

「美代ちゃん、一緒に遊ぼうよ」

彼は隣り合った家の窓からヒョイヒョイと手招きをしている。少女は彼を見て、人形を見て、そしてまた彼を見た。ぶんぶん首を横に振って、「いまリリちゃんとあそんでるからだめ」と言い、ねーっと人形に笑いかけた。

次の日はなっちゃん、その次の日はゆいちゃん。彼の順番はどこにも入れてはもらえない。

でも、人形を抱きしめる彼女の幸せそうな笑顔を見るのが彼は好きだった。

美代ちゃん美代ちゃん、と彼はフラれるために少女を誘いにいく。毎日毎日。

彼女が少女ではなくなり、すげなく追い返されるようになると、彼は真剣に悩むようになる。年頃の他の男の子よりもおそらく純粋に、深く、まっすぐに悩んだ。

どうすれば美代ちゃんのあの笑顔が見られるのだろうかと。

多感な年頃を、ふたりは隣の家に住む幼なじみながら、ほとんど違う時間軸で過ごしていたといっていい。

彼の矢印は常に彼女に向かい、彼女の矢印は常に彼以外に向かっていた。

そこを通り過ぎてひと皮剥けたのか、彼女は再び窓を開け、彼の呼びかけに応じはじめた。

しかし、以前とは決定的に違う。

彼が恋い焦がれた笑顔はそこにはなかった。
暗く冷たい影が背後霊のように付きまとっていた。

それはまるで彼女によって使い古され捨てられていった人形たちの悲痛な叫びのようだった。

彼女は言う、人形はけっして私の友だちにも娘にもなりはしないのだと。昔は人形に理想を見出していたけれど、それは幻想にすぎなかったのだと。

そこで彼は、彼女のために完璧な人形をつくることを決意する。

「美代ちゃん、待ってて!」

世界中を旅しながらあらゆる人形を研究し、さまざまな実験や製作を積み重ねた。あっという間に十年、十五年と月日が過ぎていった。
ふたりの時間軸はズレたままだということを彼は肝に銘じておくべきだった。

彼が帰国したとき、彼女の家は解体され、更地になり、売りに出されていた。彼女はすでに結婚して子どもを産み、別の場所で新しい生活を送っていた。

一時は呆然とし、悲しみに沈み込んだけれど、彼女の近くで暮らすうちにだんだんと希望が見えてきた。

彼女は今でも影のあるうすい笑みをたたえていた。勝手に幸せになってなどいなかった。

彼はすぐさま人形の製作にとりかかった。

そのすぐあとに彼女は離婚し、娘とふたりで生活をはじめた。

彼は思い出す。彼女が昔、娘がほしいと言っていたことを。

「着せ替えって楽しいじゃない」と幸せそうに笑っていたことを。

彼は完璧な娘となりうる人形をつくることを決意し、そして八神しずるが誕生した。

「え、ちょっと待って」

私は八神しずるの話が一段落したとみて、こらえきれずに切り出した。

「私のお父さんって彼とは別人でしょう?彼が帰国したときには母は別の人と結婚して私を産んでいたんだから」

そう言うと、彼女は「今から話すところだったのに」と不機嫌そうに唇を曲げた。

「美代子さんは離婚して2,3年で彼と再婚したはずよ。とはいっても、彼には彼女を誰のところにも行かせないくらいの意味しかなくて、実際に生活が変わったわけではなかったみたいだけど」

それがほんとうなら、彼という人物は私のいちおう義父ということになる。しかし…

「八神さん、それならあなたの名字はどこからきたの?」

私の問いに、彼女は微かな寂しさを口調に滲ませた。

「八神は彼の両親が離婚する前の名字。彼はそのあと母親に引き取られて名字も変わったから。…彼にとっては幼かったその頃がいちばん楽しかったんでしょうね」

八神しずるはそう締めくくり、窓に視線を投げた。入り組んだ蔦の隙間からもれる光は消えそうなほどうすくなり、闇がそろそろと忍び寄ってきていることを教えてくれた。

母親の人形への執着。人形師との再婚。そして八神しずるの取り引き。

知らなかったとはいえ、母親が私に向ける視線には幼心に異様さを感じてもいた。

彼女にとっては何もかもおままごとの延長にすぎないのかもしれない。

それでも、と私は思う。あんな家でも、母のドールハウスでも、私の居場所はあそこなのだ。

「今日はもう帰ります。今後のことはまた近いうちに話し合いましょう。…ああ、そういえば、彼は今どこに―」

ドアのほうへ歩きながら振り返った私の目に炎が飛び込んできた。
八神しずるがマッチをすったのだ。

彼女は部屋の四すみに置かれたランプに火をいれて歩く。ひとつ灯るたびにぼうっと明るさが増す。

やさしい照明の下で、彼女の瞳が敵意にらんらんと輝きはじめるのを私は恐怖をもって見ていた。

「彼は今どこに、ですって?
土の下よ。彼はつい先日この部屋で自殺したの。蔦で首を吊ってね」

八神しずるは再び赤い着物に手を伸ばし、氷の割れ目に細い指先を這わせる。

「似合ってるって彼女も言ったのに…あなたの母親、私を引き取る直前に、やっぱりいらないって言ったのよ。私には足りないんですって。そんなものあるわけないのに。ああ、そうか、あなたみたいな無駄が足りないって意味かしらね」

八神しずるはそう言って、着物にガッと爪をたてた。

ビリッと裂ける音がして、垂れた生地のうしろから下地がのぞく。

「ほつれていたわ。ほころびがあれば、いつか滅びるの。こうやっていとも簡単に壊せてしまう。それは弱さ。知らず知らずのうちに肥大し、自らを蝕み滅びに追いやる」

彼女は再びガッと爪をたて、勢いよく生地を引き裂く。狂ったように何度も何度も。

「彼自身は弱かった。いつも危うさを抱えていた。でも、彼は美代子さんのために私を生み出した。彼は絶対的な物語をつくれる人だった。それが私。八神しずる。私は彼の忘れ形見。私は彼の誇り。…誇りを穢した償いはしていただくわ」

彼女は破け散った着物から手を離し、ゆっくりと優雅な足取りでこちらに近づいてくる。

赤く色づいた部屋のなかで、八神しずるの美しい顔が血染めのようにあやしく浮かびあがる。
まるで縫い留められたかのように私はそこから動けなかった。

「なぜなの。どうしてなの。…私に何が足りないと言うの。血のつながり?
それならあかねさんからもらいましょうよ。彼は美代子さんと私と三人で家族になるつもりだったのに。理想を否定され、プライドを傷つけられ、彼はもうどこにも行けなくなってしまった。抜け殻になってしまった。

…思い出すわ、彼は死ぬ前、リリちゃんって名付けた人形を抱きしめて泣きながらナイフで顔をズタズタに引き裂いていた。幸せはもうない、ここには何もない、って壊れたように繰り返していた。…私、あなたのほころびなんていくらでも見つけ出せるわ。彼の代わりに私がナイフを突きたてる。あなたには繕う価値などない。滅びてしまえ」

八神しずるの冷たい手が私の首にかかる。ほっそりしたからだつきからは想像もできない力強さでギリギリと締めあげる。

うっ、とうめいてうしろに下がったとき、ローファーの硬い踵がコツッと何かにぶつかった。

え?ドア?さっきまで開いてたのに。

絶望的な気持ちになったとき、うしろから制服の裾が強く引っ張られた。驚いて振り向いた私の目に、まだあどけなさの残る美しい少女が映った。

黒目がちの瞳でじっと私を見上げ、だれ、と平坦な声で尋ねる。

「あら、あおいちゃん。どうしたの?」

いつの間にか手の力を緩めた八神しずるが少女に声をかける。
あおいと呼ばれた少女は、わすれもの、とひとことだけ言った。
少女はセーラー服の裾をぎゅっと握りしめたままでいる。

「はじめまして、あかねです。私は今から帰るところ。あおいちゃんはここに住んでるの?」

私は肩ごしにあおいちゃんと目を合わせ、ニコッと微笑みかけた。もしかしたらこの子のおかげで危機的状況を脱することができるかもしれない。
そんな淡い期待を少女の無垢な瞬きに込めて。

あおいちゃんは表情を動かすことなく、首を横に振り、すらすらと住所をそらんじる。どこか幼い子どもが覚えたての単語を意味もわからず唱えているようで可愛らしい。

と思ったが―

「え…?」

少女が口にした住所には聞き覚えがあった。

思い違い?

いいえ、中学校の頃からしょっちゅう書いていたから覚えている。
いつも手渡しなのに、格好がいいからって毎回きちんと手紙の封筒にお互いの宛名と住所を書き添えていた。

それが、私たちのルールだった。
私と、きみちゃんの。

八神しずるがにやっと笑う。まるで悪魔だ。

「きみちゃんに何をしたの!?」

冷静さなんてものはどこかへ吹っ飛び、カッと頭に血がのぼった。
彼女なら何をしてもおかしくない。それが今日一日でよくわかった。

最悪の事態を予想して怒りに震えていると、八神しずるは面白がるような調子でひょうひょうと言う。

「君山さんねえ、ちょっといろいろ知りすぎちゃったのよ。わかるでしょう?
突っ込んだ首がつながったままだなんて誰も保証してくれないわよ。好奇心は身を滅ぼす。これもこの世の道理でしょう?」

八神しずるが言い終わらないうちに、私は彼女に飛びかかろうとした。

からだじゅうの血がとぐろを巻いて逆流しているみたいだった。絶対に許さない。
しかし、彼女は逃げようともしない。

ただそこに立って、これまでのことが嘘のように、あの無関心なまなざしを私に注いでいた。

彼女の細い首筋に手が届く寸前、私のからだはものすごい力でうしろに引き戻された。

「あおいちゃん。お願い、離して」

少女は私の制服を掴んだまま、じっと押し黙っている。
それにしてもなんという馬鹿力。
裾を摑まれているだけなのに、びくともしない。

「ね、あおいちゃん―」

再び促そうとしたとき、八神しずるが静かに口を開いた。おつかいに行ってきてもらおうかしら、とでもいうような気安さで、

「そうね、せっかくだから役割分担しましょうか。あおいちゃん、ここの片づけお願いできる?」

そう言って、さっさと私の隣をすり抜けようとする。

ちょっと、と腕を掴んで引き止める私の手を邪険に振り払い、「残念だけど、メインディッシュはあなたじゃないの」と面倒くさげに言い捨てる。

「しずるさん、このひと、おにんぎょう?」

少女は相変わらず顔色をまったく変えずに淡々と疑問を口にする。

この少女のある種の無邪気さは、今の私には何より恐ろしく感じられた。

廊下の闇に半身を溶かした八神しずるが首だけで振り向く。

「ええ、そうよ」

じゃあよろしく、と彼女はすぐに闇のなかに消えていった。

違う、私は人形じゃない。
否定しようにも、なぜか声がまったく出ない。金縛りにあったみたいにからだもガチガチに固まっている。

少女はぐいっとセーラー服の裾をめくり、ツーと素肌に指先を這わせる。

じんじんとした熱さが伝わってくる。

「…ち……っが…」

絞り出すような声を聞きとめたのか、指の動きが止まった。

首をかしげているのがわかるような沈黙。
「でも、せなかにぬいめがある」
不思議そうなあおいちゃんの声にハッとする。

背中の縫い目。
幼い頃、母が服の上から肌に縫いつけてしまった跡がいくつかある。
失敗したのだという言葉も、今はもう鵜呑みにはできない。
ほとんど記憶にないが、相当痛がったはずだ。泣き叫んだはずだ。
それなのに、ここまで背中に広がるものだろうか。

「…っう…」

少女の指先が再びうごめきはじめた。何かを確かめるように、するすると傷跡をなぞっていく。
怖くて、見ることも触ることもできるだけ避けてきた過去の傷。

みっともないことを暴かれているようで、みじめで、泣きたくなってくる。

指の動きがまた止まり、今度はゴソゴソとポケットを探る音が聞こえる。

「…な…に…」

吐息のような言葉に、少女は律儀に耳をとめ、首が動かない私の目の前で手のひらをひろげて見せた。

嘘でしょう。

急速に血の気が引いていく。痛みで割れそうなほど頭のなかで警告音が鳴り響く。

少女の手には、10センチちょっとのリッパーが握られていた。そう、糸の縫い目をぷつんぷつん切る裁縫道具。

それが背中で振りあげられる気配がした瞬間、私の意識は声にならない悲鳴とともに闇のなかに落ちていった。

その間際、少女の無感動な声が耳元でぽつんと聞こえたような気がした。
「うしろ、ほつれていますよ」

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